2008年7月1日火曜日

おわり

たくさん言いたいことは山ほどあるけど、
たとえばそれをぐっと我慢することも私にとっては重要で
言葉をたくさん並べれば並べるほど 平べったく見えることもある
でもでも!

帰国が決まりました。

ぶっちゃけ、帰りたくないっす。

帰りたくないばっか考えてたら、病気になった。
この素直な体をどうにかしてください神様。

ようやく、日々の暮らしでドイツ語だからおびえるとかなくなったり、
店でよく分かんない時にさらっと聞けたり、
なんか地味に馴染んでるのか、やたらと街で親切にされたり
車が道を譲ってくれたり
今まで不親切だと感じていたドイツが急に色や形をかえて私の前にやってきて
ようやくだ!!!と思っていたこの矢先に

帰国ですよ!

仕方ない。約束だ。
たくさんの人が、残っちゃえよと私にささやく

でも、ちゃんとMA卒業します。
そんで、こんどはアーティストとして戻ります。

1年じゃね、全然ですよ。
超深い海の波の部分をとりあえず漂ってみたような
その深い海の底へは1年では到底たどりつけない
それを気付けたのはたくさんの人との交流があって、たくさんのいい経験をさせてもらえたから。
ほんと、色々とどうもありがとう。

ブログは徐々に消していきます。

9月1日に帰国しまーす
刺身とか寿司とか
焼き鳥とか焼き魚とか
うまいケーキとか エビスビールとか!!!!!!

2008年5月20日火曜日

で、


でもやっぱりなんといっても作業してるのが一番楽しい
あと2ヶ月の学校生活、7ヶ月は一瞬で過ぎ去りました。焦る自分と、相談しながら 乗り越えた何かは意外とでかかった気が
1年でたまった余計なものを整理しつつ、新年のようなすがすがしさで、1年で一番素敵な時期と言われる今日この頃をようやく満喫できているような気がします。
そしてブログもそろそろ閉めようかと
発していくベクトルが自分の中でずれてきたから

2008年5月10日土曜日

最近3



そしてドイツ各所、プラハ、ウィーン、ザルツブルグ
贅沢な音楽にかこまれて、春を満喫

2008年4月26日土曜日

最近2


フィレンツェにいったりしてました。
初、シンポジウム、、ジュエリーについてたくさん考えました。
ミレニアムに訪れたときは私はまだ20歳とかで。街は変わらないのに、自分は変わってました。
良い年を過ごせて行けるといいなあ。。

最近


ドイツ、ハナウにある、ゴールドシュミーデハウスにいったり、
そこからフォルツハイムのジュエリー美術館にいったり・・・

2008年4月1日火曜日

History


DDR(Deutsche Demokratische Republik)・・・旧東ドイツ。

なんとなく社会主義、ソ連、第二次世界大戦、冷戦、、くらいの歴史的事実しか知らなかった自分にとって、リアルな話をじかに同年代の人に聞いた事、かなりの現実でした。
1990年にDDRが正式になくなり、それをさかいに世界が完全に変わったということ。それまでに生きてきた世界が完全に変わる経験、それはたとえその子が7歳だったとしても、忘れ難い経験のようでした。
それまでにDDRに存在するチョコレートは2、3種類しかなく、車も2、3種類から選ぶ。物は政府から供給される。住む土地も、いろんな職業が入り乱れて住むように均等に職業をわけて政府が指示。住むフラットも居住者の数に応じて数種類あり、 中身は全く一緒。どこの住まいに行ってもすべて同じ家具、調理器具、配置、なにからなにまで一緒。ひと月に政府から生活費を渡され、その中で家族がやりくりする。当然高い服は買えないので、政府が発行するファッションマガジンをみて、布を買ってきて手作り。グレーな街並みにはすべて同じ形と色の花壇。
完全に言論は統制され、住民が住民を見張る、隠れた見張り番が存在し、家族にさえそれを告げずに常に誰か危険思想の人がいないか見張るシステム。
結婚は早く、子供を産んで育てることが素敵な一家の理想像とされ、女性は早くに子供を出産。
供給された洗剤で家をきれいにするため、DDR独特のにおいまであったそうな。幼稚園も常にその匂いがしていたらしく。どこにいっても同じにおい、同じ車、同じ服、同じ景色、同じ考え、完全にコントロールされた生活・・・
旧東ドイツが解体されてからの世界の変わり具合は、グレーな生活が突然色をもって回り出したようなそんな感じらしいです。それまで2、3種類しかなかったチョコレート、突然市場にチョコレート屋さんが軒を並べ、色とりどりの甘いお菓子に心を躍らせ、西ドイツ圏から入ってくる雑誌の女の人の洋服の大胆さに驚き、女性の生き方すら違って、すべてがカルチャーショックだったそんな生の記憶は本当にリアルでした。関西のジャリンコだった自分がつくば研究学園都市に引っ越した時ですらそうとうカルチャーショックだったのに…そんなに世界が突然変わることは想像を絶します。

また、別の話で、ドイツ人の友達Aがアメリカに留学した際、アメリカ人の友達のユダヤ人の話になり、そのドイツ人のAは、ユダヤ人の友達と触れ合った経験がなく、それをアメリカ人に非常に驚かれ、「あなたはドイツ人だものね」と言われたとのこと。それについて、Aは非常に戸惑ったらしく。自分たちの過去を突き付けられた、そんな感覚だったそうです。
やはり、ここの国ではいまだにユダヤ人ということを隠して生きている人がたくさんいて、歴史が、信じられない事実があります。実際私もユダヤ人に、ドイツで会ったことがありません。ただドイツでは、そうした過去の歴史教育はかなりしっかり行ってるそうで、みんなとてもよく知っています。それは決して自分を卑下することでも、かといって同情をすることでもなく、当たり前の事実として、二度と繰り返さないための教育。どこかの国とは大違いだ。。

歴史、日本でいう日本史、世界史、いつもどこか遠いよその土地の出来事で、ヨーロッパ史なんて込み入りすぎてて全然うろ覚え、、ただここにきて自分の無知さを思い知りました。大航海時代は、胡椒と羅針盤と・・ってただ丸暗記していたけど、胡椒がそんなに一大輸入品だったなんて今現実に置き換えてみると、ものすごいリアルに感じたりして。肉に胡椒…防腐、消臭、調味。最初に食べたヨーロッパ人は目から鱗だったんだろうな。長持ち!そしてうまい!!!!みたいな。

そうして世界をみていくと、かならず何か理由が、出来事が、すべてつながって今の現実がある。
それは全然遠い昔の話ではなく、今ここに自分がいる理由。あらためて思い知らされました。

2008年3月30日日曜日

春の訪れ


アル中の主婦のドラマを見て、アルコールが怖くなって3日間アルコールに手をつけられなかった小心者の私、イースターが終わり、友人たちが一斉にそこかしこから帰ってくると同時にサマータイムがもうやってきました。昨日の晩2時に1時間遅れたそうです。賢いパソコンや電波時計はしっかり1時間遅れていました。
昨日あたりから急に外は春めいて、素敵な具合。春うらら、散歩にでかけてふらりと寄った電気屋 ラブ!そして心はどんぞこに、、
なんでこんなにプリント用紙が高いんだ…だいたいなぜかヨーロッパは紙が高い。本は大量にあるというのに。そして、プリント用紙までやはり高かった。。170グラムのインクジェットプリント用紙(多分日本で言う薄手と厚手の中間くらいの紙)25枚で、10ユーロ。。ヨーロッパで自力で印刷を考えてる人には、ぜひ用紙を日本から持参することをお勧めします。日本のあの紙の種類の層の厚さ。控え選手に至るまで素晴らしい粒のそろい用、素晴らしい。というか、ハレに物資が少なすぎるのだろうか。ベルリンは?ミュンヘンは?!マテリアル関係はほんと、日本が充実してますよね。。貼れパネも高いし。。

2008年3月25日火曜日

おわりのはじまり


みんな、卒業おめでとう!

2008年3月21日金曜日

タメ


雪のちらつく明日はイースター
ふと窓を開けたら、そこには春の香りが漂ってました。
突然降る雪と、冷たい風と、そこかしこに漂う春の空気が崩れたハーモニーを生みだして何とも言えない感じです。
7時にはもう日が昇りはじめて、6時まで明るい今日この頃、
11月頃からの暗黒の冬を越えて春はもうそこまで来ているんだな、と実感
冬は春を楽しむためにあんなに暗黒だったのだろう。
スノボでも何でも高く飛ぶためには膝をしっかりまげてタメないと飛べないんだな。。
タメよう。しっかりと。

2008年3月19日水曜日

晴れときどき雪


春の訪れは突然の大雪によって裏切られる。晴れ、ときどき、雪
まるで人生のようだなあ、とyoutubeからながれるジプシーキングを聞きながら、ここはどこだ、と一瞬錯覚。
ドイツにジプシーキングスファンがこんなにいるとは思わなかったです。
そしてジプシーキングスの歌は、イタリア語らしいです。
フランス語をちょっぴり習い、雪の中わざわざ出かけてみたら、日本と同じ音がしていました。
雪の降る音。
太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ。

2008年3月16日日曜日

季節の変わり目


日に日に目に見えて日が長くなり、市場にたくさんのチューリップが並び、ドイツも春の気配を感じる今日この頃、季節の変わり目には必ず体調を崩してしまう自分がいます。
2月にあちこち飛びまわって引っ越しして、ようやくほっこりしたところですかさず風邪をひき、そのままずるずると体調のすぐれぬまま、新しく購入したアドビマスターコレクションに手を出してしまったのが運のつき、確実にはまってしまっています。
まあ、もともと3月はポートフォリオとWEBを更新すること、と決めてたのでいいっちゃいいんですけど、パソコン仕事は一度はまりだすとなかなか抜けれないというのも事実で。ドイツも三寒四温、寒い時はうちでパソコンに向き合うAガールでもいいかな。と。

2008年3月12日水曜日

名前の付け方


カテゴリーわけをする事はラクだけど、私は昔からそれがヘタだ
私は女の子です。(でも)
私は日本で育ちました。(でも)
私は鍛金を専攻しています(でも)
今はジュエリーをしています(でも)
いつもいつもたくさんの”でも”に悩まされて、今だってなんて自分の事を言ったらいいのかわからない。
そんな人生平たくないし割り切れるもんでもないんだよ 
こんてんぽらりーじゅえりーって何だ げんだいあーとって何だ
今そこにある、ここにいる、それが何よりの強いカタチ
名前は後から誰かが勝手に与えてくれると信じなきゃ、そこに戸惑って仕方ない自分がいるような、いないような。

2008年3月3日月曜日

お引越し


そして、旅行月が終わった昨日、新居に引っ越しました。仕事場付きの、素敵なおうちです。
3人+犬1匹。
残りのドイツ生活にむけて心機一転。こっちに来た時の荷物よりもあかからさまに増えている物たちを憂いつつ、あと約6か月、がんばります。

2008年3月2日日曜日

SCHMUCK 2008


ミュンヘン、TalenteやSchmuck2008見てきました。
びっくりするほど知り合いがたくさんいて、世界は思っているよりも狭いのか?!と動揺した部分もあり。でもでもでも、著名な作家さんたちとお会いできたのは最高でした。
ミュンヘンの、ハンドヴェルクメッセと時を同じくして、ミュンヘン市内各地でたくさんの展覧会も行われ、日本でみたことない、ギャラリーの満員御礼。人がギャラリーに収まりきらず、あふれかえっていました。写真は、Karl Fritschさんの展覧会。

夜は夜で、みんなパーティー三昧。500人のゴールドシュミーデ(金銀を主に使ったりしてジュエリーなどを作る職業 日本でいうと彫金に近い)たちの集まるパーティーもあり、本当におかしい感じでした。
そこにいるほとんどの人がろう付けできたり、糸のこがひけるのかと思うと、すごい不思議。みんなが各々のジュエリーを身につけて、あ、あの人は!ジュエリー界のスーパースター!的な人がその辺でわいわい飲んでて。

そこで、頂戴した言葉。

Ein Goldschmied, der nicht trinkt, ist wie ein Brillant, der nicht blinkt.
飲まないゴールドシュミーデは、輝かないダイヤモンドと一緒だ。

2008年2月28日木曜日

旅行月


ベルギー
galerie sofie lachaert TIELRODE にて、無事展覧会が始まりました。
初めて訪れるアントワープやティルロデ、またまた新しい出会いと、素敵な作品たちに会う事ができて、感動ひとしおでした。
ベルギーにも遊びに来てね 笑

2008年2月14日木曜日

気がついたら


約1ヶ月がすぎさり

ブログ更新せず。

とりあえず、こんなに充実した1ヶ月は今までなかったということ、
今日はポルトガルから帰ってきたばかりというところ、
明日からミュンヘン、1週間後にはベルギーでも展覧会があるということ

良い意味で自分のお仕事に専念できていると、

言葉を発していくことがたまにつらくなり

今はためる時間なのでは、とそう感じております


今やれることをやるのみ

はあ 幸せすぎる。。

2008年1月20日日曜日

異常気象


アメリカインディアナ州は、1週間おきマイナス10度から20度へ、そしてまたマイナス10度へと変化したそうな。

先週くらいまでマイナス1度が最高気温だったドイツ、ハレは、今日は11度です。
スペインは年末マイナスいくかいかないかくらい寒かったのが、年明けは18度だったらしく。

学校が始まり、世界に散っていた友達たちからの情報、何かがおかしいと肌で感じるには十分でした。
かといって、どうすりゃいいかってゴミを分別するとか、ビニールバックもらわない、とか電気こまめに消す、無駄にものを買わない。必要なものだけ買う。とかそれくらいしか今のところできない。
これからの時代に、子供を残していきたいかっていえば悩むくらいちょっと深刻で。南極の氷は全部溶けきることはないだろうという研究発表が最近でたみたいですけど、だから?って感じもするし。最近楽観的な意見がやたらとメディアにのっかってますけど、オーストラリアも捕鯨を禁止禁止と異国文化に異議を唱える前に、もっと国をあげて取り組まなきゃいけない問題があると思うんですけど。

everyday


旅行から帰ってきたあとは、ここが第二の故郷になってるってこと
そして訪れる強烈な孤独感は友達が気を使って持ってきてくれた夜景を見ながらの一本のウォッカによってほぐされ、たくさんの人からの手助けによって完璧に淘汰されました。

しょせん人間一人だってことは頭で理解しても、中々処理できないこともあって
たったひとりの人の何気ない言葉によってすっきりできたりすることもあって
そんなくだらない行ったり来たりの中に答えが実はあったりなかったり
もやもやも時にはすばらしいお土産をくれたりするんだな、とすごく今は幸せな気分で皆さんありがとう。

2008年1月18日金曜日

チュニジア酒事情


チュニジア。ソフトイスラムの国。
酒は、基本飲んでもいい国ですが、探せど探せど見つからず。
見つけたビールバーは、のぞいた瞬間、ボディーガードのおじさんが、「What's happen?!」要するに、カフェやバーなどの社交場に女の子が一人で来ることなど皆無な土地柄、でも絶対に飲みたい!と意志を固くした私は酒探しの旅に出るのでした。
2000円から3000円だすような、高級レストランには酒やワインがありますが、なにせツーリスト用な感覚のレストラン。一人で行くのはちょっと…
そこで2,3軒はしごしてようやく見つけたのは、首都チュニスでの出来事でした。
デパ地下のような場所の奥の奥、20人くらいのおじさんがまるで悪いことをしてるかのように列をなしていた一角にはゆめにまでみたアルコール天国。そのオジサン行列の最後尾に並んだのは言うまでもなくわたくし。並んだ瞬間にオジサン会議が始まり、その中の多分ちょっと英語が話せるであろうおじさんは、私に最前列に並ぶように指示。
どうやら、その列はほとんどレストラン経営などの業者さんらしく、かわいそうな酒中毒(そんなことないけど!)のツーリスト女性に先を譲ってくれるらしい。そこでありがたくチュニジアレッドワイン「マゴーン」とチュニジアビールをゲットできました。20人ごぼうぬき。笑
しばらく酒断ちしていた私には思いもよらぬ幸せハプニング!チュニジアオジサンたち、ありがとう。
ワインあけるのすごく苦労したけど、幸せでした。
チュニジアはやはり酒を手に入れるのが難しい国。ドイツの酒天国とは違うありがたさが。。感激ひとしおでございました。。

2008年1月17日木曜日

チュニジア2


チュニジアは今回
モナスティールin→スース→トズール→ドゥーズ→マトマタ→ジェルバ島→チュニス→カルタゴ+シディブサイド→モナスティールout を、8日間で回りました。
モナスティール空港からスースには1時間に2本くらいの電車で30分くらい。
スースからトズールまでは1日に1本の夜行電車。みんな寝てました。私は初日だったのでドキドキしてあまり寝れなかったけど。
トズールがかなり私的にはヒット。レンガを手前、奥に並べ分けてそこいらじゅうの建物に描かれる幾何学文様が美しかった。。しかも明け方6時に着いたときには砂っぽい真っ暗な街が、夜明けとともに太陽の光によってオアシスの水分が蒸発たのであろう、街全体が突然潤う感じで、その雰囲気がオアシスと人と砂漠とを感じさせるには充分でした。そこから砂漠への交通手段。。ルアージュ。前述のルアージュ、チュニジアへ行ったらぜひ体験しないと損です。おもしろいです。地球の歩き方の地図とは全然違う場所のルアージュステーションを探し当て、目指すはサハラ砂漠の入口、ドゥーズ。まあ、どこもかしこも観光地化されてますけど。らくだとかも待ち構えてますけど。それでも、サハラ砂漠!人生で一番最初に覚えた砂漠の名前がサハラ砂漠。。だと思う。砂はさらさらでした。細かすぎる。。甲子園よろしく一応持って帰ってきたけど。時間があれば、砂漠宿泊ラクダツアーやってもよかったけど、時間の都合上ツアーはパスで、がしかしラクダにはしっかり乗ってみました。私の白ラクダは暴れん坊で怖かった。どうやらみんなヒトコブラクダだって。
ドゥーズを後にした我々が向かった先はスターウォーズファンならみんな訪れるであろうマトマタへ。
このマトマタ、惑星タトゥインのロケ地。チュニジアの他の地域と違い、写真に写ってるような小山がいっぱい連なってるこの地域は風も強く、自然が厳しいようで、古くからベルベル人が横穴を小山に掘って、住居にしてるらしいです。今は観光的な感じがぬぐえないけれど、まだまだ素朴で、なかなかよかった。スターウォーズのロケ地は今はドミトリー式の宿泊施設になっていて、冬のシーズンオフの宿泊客はうちらを含め4人でした。スターウォーズバーと名付けられた小さなしょぼいバーは水が通常の3倍という値段でシャイセな感じでしたが、雰囲気はまるでおとぎ話のようでなかなか楽しめました。
その後リゾートなジェルバ島でまったりするもその後一人旅になり、女一人になった瞬間から、ナンパの雨あられ…
ジェルバからチュニスには超小さい墜落するんじゃないかくらいの飛行機で1時間、ジェルバのチュニスエアーで飛行機とって到着した首都チュニスはヨーロッパの景色の中にチュニジア人がいるっていう感じでした。チュニス滞在中に、念願のカルタゴ!ローマ人がはるか昔に覇権を握ったカルタゴ!感無量。天気もよくて、一人でニコニコしながらローマ人の生活を想像して楽しみました。シディブサイドもよかったけど、断然カルタゴ。
砂漠、海、遺跡、とかいつまんでチュニジア巡って感じたのは、まったく異文化ってことと、酒飲むの超むずかしいじゃないか!ということ
また酒かいって思った?大切ですよ~チュニジア酒談議はまた次の機会に。

2008年1月14日月曜日

チュニジア


チュニジア。北アフリカ。北は地中海、南はサハラ砂漠を望み、西はアルジェリア、東はリビア、と、テロ地域に挟まれた比較的ソフトなイスラム教の国。フランスに統治されていた過去から、フランス語とアラビア語がみんな話せて、英語は驚くほど通じません。おじいさんまでフランス語が堪能という、不思議な感じ。物価は日本の約4分の1程度な感覚。主にフランス人、ドイツ人のバカンスの場所として観光地化されてるところは、全然ヨーロッパな感じですが、ほんとに一部。チュニジアはまったくもってイスラム!なとこでした。
ヨーロッパからチュニジアへは、Monastir モナスティール空港、Djerba ジェルバ空港にやたらとエアーフランスや、ルフトハンザが飛んでるようで。今回はドイツが誇る(?)Air berlinを使って近所のHalle Lipzig 空港からニュルンベルグ乗り換えのモナスティールイン。何度か、ここはドイツ老人慰安旅行か?!と錯覚をおこし、こんなにも裕福なドイツ人たちが旅行してるとは…と驚きました。しかも、なぜか飛行機が着陸すると必ず拍手喝采。他国のツーリストに聞いても、「ドイツ人だからじゃない?」うん。私もそう思ったよ。

チュニジア、ちゃんと鉄道もバスもありました。ほんと、行く前の不安が嘘のように、意外としっかり旅行しやすくできているというか。日本とはそりゃ比べ物にならないですが、1時間に大体1~2本は電車もあったし(長距離は1日1本とかだけど)、南の方の砂漠に関しては、100キロくらいの都市間をルアージュとよばれる9人のりくらいのバンが往復していて、乗合形式でかなり安く人を運んでいました。最初は相当緊張しまくりで、どきどきしてましたが、そのうち慣れて景色も雰囲気も楽しめるようになり。
本当に絵のような砂漠の中に1本どこまでもまっすぐな道が走り、一緒にのってるおじさんたちは、思いっきり布を巻いたスターウォーズ的な衣装(普段着)で、ルアージュの運転手はイスラムポップみたいな音楽を爆音でかける。自分がそこにいることがどこまでも現実感がなく。着いた先は砂の吹き荒れる街。写真を見返しても不思議な気分がいまだに拭えません。いやいや。つづく

2008年1月13日日曜日

テロ


1月1日朝の6時のチュニジア行き飛行機に間に合うためには、朝の4時に始発に乗らねば空港にはつけず、友人に、絶対危ないので、送っていくといわれました。
初の年越し海外。
働かずに年越しを迎えるのも約5年ぶり。ヨーロッパの年越しをなめてました。
年末約三日のみ、店頭に並びまくる花火の尋常ならぬ量に、うすうすと感づいてはいたものの、31日の22時ぐらいから続々とあちらこちらでピューピューとロケット花火の音。
24時、新年あけましておめでとう!の瞬間から、こんなにハレに老若男女が住んでたのかっていうくらい人が路上にあふれ、老いも若きもねずみ花火や打ち上げ花火、爆竹を鳴らし、教会の鐘は今にも壊れそうなくらいリーンゴーンリーンゴーンと鳴り響き、面白がってビール片手にうろついてみた私は、初めて花火を怖いと思いました。それは、テロさながらな無法地帯… ごみ箱が燃え、血の痕のように広場にまき散らされた火薬のかす、ドイツ人のおう吐物。。。国が花火を使用するのを年1回に制限する理由がわかります。お祭り騒ぎとはまさしくこのこと。そんな中、バックパックを担いでもくもくと駅を目指す私 目的とするチュニジアはいかがなものか… つづく

2008年1月11日金曜日

夜になると

ネットがつながりません。
なぜ。
ので、いろいろと連絡できません。
うぐ、、

2008年1月9日水曜日

新年あけまして チュニジア


遅ればせながら、あけまして、おめでとうございます!

新年早々、チュニジア旅行へ行ってまいりまして、つい今しがた帰宅しました。

サハラ砂漠でラクダにのってみたりとかしました。
スパイシーなチュニジア料理と、青い空と、アフリカ大陸と
つきぬける強い日差しと吹きすさぶ砂と
白い肌の建物と地中海と


色々ありました。

楽しかったです。

チュニジア旅行記は近いうちに
そしてみなさんへの新年のごあいさつも。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。